にんげんマネジメント

マイノリティの闘いかた

「好き」は万能か

テレビドラマのプロポーズのシーンで

「好きです。結婚してください。」

というセリフをよく聞く。

 

超王道のフレーズだ。違和感を感じる人はほぼいないだろう。つまりほとんどの人は、結婚にあたって最も必要な確認事項は「好き」であることと認めていることになる。

 

さて、ここであえて疑問を投げかけてみる。

そんな重大な決断を下せるほど「好き」という感情は万能なのか。

「好き」って感情はそんなにエラいのか、と。

 

 

いい機会なので「好き」についてちょっと考えてみる。

 

モノ(例えば、デザインや音楽や食べ物とか)に向けて言う「好き」は、あくまで「全体の中の上位2割くらい」を指す言葉である。

私が「トンカツ好きなんだよね〜」って言っても、別に好きな食べ物No.1とは解釈されないし、仮に年に1回くらいしかトンカツを食べてないとしても「そんな奴がトンカツ好きを自称するのは許せない」とディスられることもない。

つまり「好き」という言葉に「スペシャル」のニュアンスが含まれない。

 

ところがヒト(特に異性)に向けていう「好き」は勝手が違ってくる。

「好きな人いるの?」「君が好き」「私のどこが好きなの?」

これらの「好き」には「1番」や「スペシャル」といったニュアンスが含まれている。

全体の上位2割くらいの意味と捉えて答えたりしたらたぶんメチャクチャ怒られる。

 

わかりやすくまとめると、

 

モノについては、

「好き」=「①好意を持っている」

であるのに対して、

ヒト(特に異性)については、

「好き」=「①好意を持っている」+「②1番である」

というように②のニュアンスがプラスされていることになる。

 

先ほど述べた、「好き」って感情はそんなにエラいのか、という疑問は、言い換えると、「好き」という感情に「数多くの中から自分に必要な1つを選ぶ」という難しい仕事をさせることは適当なのだろうか、ということである。

 

対象をヒト以外にも広げて、「数多くの中から自分に必要な1つを選ぶ」というケースをいくつか想定し、それぞれ「好き」だけで判断できるか考察してみる。

 

<ケース1「学年で1番付き合いたい女の子」>

あくまでフィーリングだが、これは「好き」という感情に一任してよさそうな気がする。

→「好き」だけで1番を選べる

 

<ケース2「夕食のおかず」>

その日のみに限った話であれば「好き」なものを選んでよいだろうが、長期的な選択であれば「好き」とは全く関連のない要素(健康、経済的な事情など)も考えないわけにはいかなくなる。

→場合によっては「好き」だけで1番を選べない

 

<ケース3「自分が就く仕事」>

好きなことを仕事にできる、というのは理想だが、多くの人はどちらかといえば「好きであるか」よりも「適正」で仕事を選ぶ。中には「好きなことは仕事にしない」という人すらいる。

→ほとんどの場合において「好き」だけでは1番を選べない

 

ざっと考えただけでも「好き」だけで1番(真に自分に必要な1つ)を選べないことがあることがわかる。

 

では、なぜ「好き」という言葉や感情がオーバーワークさせられるようになったのか。

 

もともと「好き」という言葉が背負う意味は「①好意を持っている」くらいしかなかったのかもしれないが、日本においてモノガミーが社会規範になるのに伴い、秩序を保つために必然と「②1番」のニュアンスが加えられていったのだろう。

そうだとすると、「好き」という言葉に含まれる「②1番」というニュアンスは人間本来の感情ではなく、歴史や秩序によってつくられたものということになる。

そりゃ無理が生じるわけですよ。

 

「好き」だけで1番を選べるか選べないかの差は「その対象を消費する」か「その対象に関連して何かを生産するか」の違いであると私は考えている。

例えばケース2の「夕食のおかず」において、単にその日に食べるおかずであればそれは消費の対象でしかないが、毎日食べるものであれば自分の体を生産する一因であるため、「好きかどうか」だけでは選べなくなる。

消費するときには「好きかどうか」だけを考えていればよかったのに、生産する側に回った途端「好きかどうか」だけでなく「対象は何か」「効率的かどうか」「持続的であるか」など多くの要素を複合的に踏まえる必要が生じる。

 

極論を言えば、「好き」という感情に由来する行為は、どんなに綺麗事で取り繕ったことろで、結局は「消費」である。

ケース1のように学生の恋愛なんかは多くが「相手の好意を消費して楽しむこと」がメインなのだから、相手の選定要因は「好きかどうか」だけでよいのだ。

ところがそれを通り越して、相手と何かを生産することが目的になったとき、相手への条件が「好き」だけでは片付けられなくなる。その「何か」が生活だったり子どもだったりするのが結婚なのだから、結婚は実に大変な生産活動なのだ。

 

何が言いたいのかというと、相手を消費したいって意味の「好き」なんて言葉や感情が、立派な生産活動をするためのパートナー選びの決め手になること自体がナンセンスだってこと。

 

「好きです。結婚してください。」

なんてプロポーズした日には

「好きなんていう響きの良い適当な言葉に甘えている時点でアウトです。」

と返されるような時代が来るといいですね。