にんげんマネジメント

マイノリティの闘いかた

役所は宗教

久々にブログを書く。

 

このブログを始めた当時、自分は企画部にいた。

建築職の係員が企画部に配属されたのは庁内史上初であったそうだ。

企画部でFMをはじめとする行政改革の業務に5年間従事した後、建築課に異動して意匠審査を担当することになり今に至る。

 

一級建築士の資格は取得していたものの、建築課に来るまでは業務で本格的に建築法規に触れる機会がなかったこともあり、異動が決まったときはわくわくした。

ところがいざ建築課に来てみると、そこで行われていたのは、公務の本質から一万光年離れたクソみたいな相談に対する窓口・電話対応がほとんどで、かなり面食らった。

このクソみたいな相談はすごい勢いでこちらの気力を奪っていく。毎日やっていると、対応の最中にふと、クソみたいな暴投1つ1つに対して健気に捕球に走る自分を俯瞰的に眺めてしまい、あまりのアホな姿に思わず笑いそうになる。

 

でも笑ってる場合じゃないんだよな。

われわれは遊びでやっているのではない。公務員の人工は税金で賄われている以上、公務と言えないものに長々と付き合うことは避けなければならない。

 

しかし同時に別の事実にも気づき始める。

私以外の担当は、このクソみたいなやり取りこそわれわれが行うべき公務だと信じているのだ。

今いる担当者だけではない。おそらくこれまでの担当者も、そして他の自治体の担当者も同じだったからこそ、クソみたいな相談が後を絶たないのだろう。

宗教なんて信じない、と思いそうな表面上合理的な公務員ほど知らない間に役所の宗教に侵されている。

改めて役所はヤバいところだと思った。

 

私はこのクソみたいな状況を、異動するまで見て見ぬふりをしてやり過ごすことは絶対にしたくない。

クソみたいな状況の解消に向けて何も行動を起こしてこなかった(またはクソみたいな状況だと気づいてさえいなかった)能天気な先人たちの仲間入りをするのは御免だ。

 

思えば、営繕課に配属されたときも似たようなことを言っていた気がする。

たぶんそれがきっかけで自分がFMをやることになったのだろうけど。

 

役所は改善する余地がありまくる。

 

だから、私はまだ役所で働く意味がある。

 

【ネタバレあり】ドラゴンボール超劇場版ブロリーを観た

昨日12/14公開となったドラゴンボール超劇場版「ブロリー」を観てきた。

 

劇場版が公開されると一部のファンからは「自分の思ってた◯◯じゃない」とかの批判がつきものだが、私はもはやファンを通り越してマニアなので、劇場版の公開はいわば「祭」であり、どんな出来であろうと楽しめるし、当然今回もしっかり楽しめた。

 

そのうえで率直な印象を言うと以下の4点である。

①バトルにかなり特化している(前々作「神と神」や前作「復活のF」と比較して)

②それなのにバトルの結末はかなりあっけない

③過去の設定との矛盾が多い

④ストーリー構成はかなり雑

 

予想通りすでにネットでも賛否両論が起きており、賛の理由のほとんどは①によるもので、否の理由はほとんどが③、一部が④といったところである。

 

それぞれの印象に対する私の考えをまとめるとこうだ。

①→このコンセプトはとても良かったし、ニーズにもマッチしてたと思う。

②→それだけに最後にもうひとつ特大の盛り上がりが欲しかった。

③→これは劇場版ではある程度仕方がないが原作にも矛盾する部分はちょっと残念。

④→これも劇場版ではある程度仕方がないが、ならせめてバトル以外はコンパクトにして②のとおりバトルに最後の華を持たせて欲しかった。

 

以下でくわしく述べていく。

 

①バトルにかなり特化している

 

これについては本作を観たほぼ全員が満足しているだろう。

ドラゴンボールはバトルだけじゃない!というファンも多いと思うが、迫力のある音と映像が楽しめる場で約100分という条件ならやはり欲しいのはバトルだ。

 

例えば前々作「神と神」では、バトルシーンがかなりあったが一極集中ではなく割と全編にちりばめられていて、バトルに関しては腹八分目だった印象がある。

 

ロックバンドのライブでも似たことが言えるが、1曲1曲のパフォーマンスがどんなに素晴らしくても1曲ごとにMCをはさんでいてはその度に観客の興奮がクールダウンして盛り上がりが蓄積していかない。

クライマックスに向かう終盤では、ハイテンポな曲を間を空けることなく矢継ぎ早にたたみ掛けることで観客のボルテージが渦を巻いて上昇していくのだ。

 

そういう意味では、今作のバトルシーンのたたみ掛け具合は素晴らしかった。

ベジータ→悟空→ベジータ&悟空→フリーザゴジータ、とほぼ途切れることなくブロリーとのバトルが繰り広げられていく。

闘いの中で学びながらブロリーがパワーアップしていくのに伴って、こちらの興奮も冷める暇なく高まり、どんどん映画に引き込まれて行った。

 

②それなのにバトルの結末はかなりああっけない

 

…である。

 

ゴジータになった以降はほぼピンチなしでブロリーを圧倒。

ここまで盛り上がってきただけに最後にもうひと山あるか、と思いきやチライの気遣いによりブロリーは元の星へ戻され、バトルは終了した。

 

ブロリーに対するチライの友情は確かに胸にくるものがあるが、悪者でもないブロリーゴジータが殺すつもりだったとは思えないので、元の星へ飛ばす意味はあまりなく、クライマックスの要素としてはかなり弱いのである。

 

個人的には、ゴジータとの決着をつけるために元の星へ飛ばす願いをブロリーは拒否する(昔、悟空を地球へ戻す願いについては悟空本人がポルンガに拒否できた)が、初めて芽生えた友情によってブロリーは正気を取り戻すとともに力をコントロールできる最強の戦士になり、ゴジータと最後の頂上バトルを繰り広げる、という流れとかアツいと思うんですがどうでしょう。

 

③過去の設定との矛盾が多い

 

昔のブロリーとは別の設定、とかは映画の性格上全然ありだと思うのだけど(もともと映画上のキャラだし)、原作との矛盾がちらほらあるのはさすがにちょっと、、と思った。

 

ポッドで飛ばされたカカロットは確実に尾の生えた「赤ん坊」ではないし、そもそもあんな少年程度まで成長していたら孫悟飯は別に保護しなかったのではないか。(これについては、予告編の映像やドラゴンボールマンチョコのシールを見たときから疑問に思っていた。)

また、惑星ベジータが消滅したときにベジータ、ナッパ、ラディッツ以外のサイヤ人があんなにいっぱい残っているなら、その後ラディッツはわざわざカカロットを求めて地球に来たりしないと思う。

 

惑星ベジータ消滅にまつわる設定全般が、バーダックが活躍するTVスペシャル「たったひとりの最終決戦」からガラッと変わってしまったのはブロリーの設定変更と同様に仕方ないとして、断片的にTVスペシャルのシーンを盛り込んでチグハグになっていたのは非常に残念だ。

特に、フリーザがいよいよ惑星ベジータにデスボールをキメようとしているときに、いきなり傷だらけのバーダックが抵抗しにくるのはかなり不自然だった。

あそこだけでも原作に寄せようとしたのかもしれないが、あの設定ではなぜバーダックが一人なのか、なぜ傷だらけなのかが全くわからない。

 

ちなみにこの「たったひとりの最終決戦」は悟空の父バーダックを中心とした、悟空が生まれてから原作のドラゴンボールの物語が始まるまでの話(いわゆるエピソードゼロ的なもの)である。

各劇場版と同様にオリジナルストーリーではあるが、ストーリーが驚くほど緻密に構成されており、原作との矛盾点もない(あるとすれば宇宙空間で生きられないはずのサイヤ人であるバーダックが宇宙に飛び出していったことくらい)。そして最後は必ず泣かされる。このエピソードをふまえて原作を読むとさらに味が増す、といえるくらいマニアにも非常に評価の高い作品である。

さらに強烈なのは、原作で悟空とフリーザが初めて対峙したとき、フリーザバーダックを回想するシーンがあるが、これがジャンプで掲載されたのは「たったひとりの最終決戦」がオンエアされた後である、という事実だ。

劇場版を含めてオリジナルストーリーは原作の要素をもとに作られるが、逆にオリジナルストーリーが原作に影響することは極めて珍しい。しかしこの「たったひとりの最終決戦」はその原作への逆輸入を達成した。これはつまり、原作者の鳥山明もこのストーリーが原作に近い位置づけであると認めている、と言える。

 

④ストーリー構成はかなり雑

 

上で述べたように「たったひとりの最終決戦」が秀逸な出来だったぶん、本作の惑星ベジータ消滅の部分はかなりアラが目立ってしまったと言える。

 

あとは観た人の90%は感じたであろう、パラガスの扱いの雑さ。

パラガスがいつのまにか死んでいたことがなぜそれほどブロリーを刺激したのか全くわからない。

悟空の流れ弾がチライに当たって死んでしまった、とかならわかるのだけど。

 

 

と、まあ②〜④ではいろいろケチもつけたけど、何といっても今作は①がズバ抜けてるし、細かいツッコミを入れることすら楽しいので、結局のところ最高!である。

 

次回作が1年後になるか2年後になるかわからないけど、またワクワクしながら待つことにする。

 

 

恋愛と結婚の違い(斉藤由貴さんの不倫報道をみて感じたこと)

斉藤由貴さんの不倫疑惑に対する釈明会見を見てると、どこか同情するところがある。

 

当然ながら、不倫は世間的に悪い(違法な)ことである。

だから不倫に手を染める人からは「悪いことだと理解したうえで人の目を盗んでこっそり楽しむ」というどこかしたたかなニオイが感じられるものだが、彼女からはそれが感じられない。

反省していると言うものの、何が悪かったのか自分でもよく整理できていないように見える。

 

おそらく、彼女にとって恋愛と結婚は恐ろしく別モノなのだと思う。

 

いやいや、斉藤由貴さんだけでなく、みんな恋愛と結婚は別モノと考えてるYO!とツッコまれそうだが、ここで私が注目してほしいのは「別モノ」という部分でなく「恐ろしく」という部分だ。

 

モノガミーが常識となっているためか、少なくとも今の日本では恋愛と結婚は切り離せない。というより切り離してもらえない。

世間の認識として結婚のインプットが「お見合い」と「恋愛」の2択なのがその証拠だ。これは言い換えると、第3者が介入する「お見合い」という例外を除けば、両者の合意によって結婚する方法が「恋愛」しかないことになる。

つまり、恋愛と結婚が根本的に別モノと考えている人なんてほとんどいないはずなのである。

 

一般の人が口にする「恋愛と結婚は別モノ」は、せいぜいヒヨコとニワトリの違いだ。

あんたの恋愛(ヒヨコ)はまだまだ結婚(ニワトリ)というレベルまでトランスフォームしていないのよ、という具合に。

 

私がいう恐ろしく別モノとは、ヒヨコとコンクリートくらいのレベルの別モノである。

ヒヨコからみて、もう同じ種でもなければそもそも鳥でもない、というかもはや生き物ですらない。それくらいの違い。

 

この例えをさらに引っ張ると、ニワトリ(結婚)にするためにヒヨコ(恋愛)を育てた普通の人は、一羽のヒヨコをニワトリにまで育てきった後にまた別のヒヨコをイチから育てるなんてことは基本的にしない。

しかし、ヒヨコ(恋愛)と一切関係ないところで型枠組んで打設して養生してコンクリート(結婚)を築いた人は、ヒヨコを育てる楽しみを完結させているわけではないので、興味さえあれば当然引き続きヒヨコを育て続ける。ニワトリにすればゲームクリアというルールもないので、結婚(コンクリート)と関係のないところで延々と恋愛(ヒヨコ育て)を欲してしまう可能性があるのだ。

 

夫婦がお互いがそんな人種ならまだ良いが、ほとんどの場合お相手は大多数のニワトリタイプ(前者)だから、結婚後に自分だけヒヨコ育てを続けることなんて許してもらえない。

斉藤由貴さんが私のいうコンクリタイプ(後者)かどうかはわからないが、一般とは異なる恋愛観によって苦しんでいることは間違いないと思う。

 

ただ、だからといって私は不倫を容認しているわけではないことを強調しておきたい。

コンクリタイプのようなマイノリティはその苦しみを理解してもらいにくいし、大多数のニワトリタイプに比べて結婚生活を維持するのは難しいが、結婚というスキームを自ら選んだ以上、ルール違反は許されない。

結婚なんていわばマジョリティのための制度なのだから、マイノリティが導入するなら慎重に吟味しなくてはならないと私は思っている。

 

ちなみに私はというと、恋愛と結婚を恐ろしく別モノと考えているので、現在未婚だが、今後結婚するとしたらコンクリタイプになるだろう。

結婚したらしたで苦労する、結婚しないならしないで周囲からの偏見に苦労する。

結婚という制度がもっとマイノリティに不利でない内容に変わるか、結婚を選択しないことがもっと当たり前になるか、のどちらかを望むばかりである。

「好き」は万能か

テレビドラマのプロポーズのシーンで

「好きです。結婚してください。」

というセリフをよく聞く。

 

超王道のフレーズだ。違和感を感じる人はほぼいないだろう。つまりほとんどの人は、結婚にあたって最も必要な確認事項は「好き」であることと認めていることになる。

 

さて、ここであえて疑問を投げかけてみる。

そんな重大な決断を下せるほど「好き」という感情は万能なのか。

「好き」って感情はそんなにエラいのか、と。

 

 

いい機会なので「好き」についてちょっと考えてみる。

 

モノ(例えば、デザインや音楽や食べ物とか)に向けて言う「好き」は、あくまで「全体の中の上位2割くらい」を指す言葉である。

私が「トンカツ好きなんだよね〜」って言っても、別に好きな食べ物No.1とは解釈されないし、仮に年に1回くらいしかトンカツを食べてないとしても「そんな奴がトンカツ好きを自称するのは許せない」とディスられることもない。

つまり「好き」という言葉に「スペシャル」のニュアンスが含まれない。

 

ところがヒト(特に異性)に向けていう「好き」は勝手が違ってくる。

「好きな人いるの?」「君が好き」「私のどこが好きなの?」

これらの「好き」には「1番」や「スペシャル」といったニュアンスが含まれている。

全体の上位2割くらいの意味と捉えて答えたりしたらたぶんメチャクチャ怒られる。

 

わかりやすくまとめると、

 

モノについては、

「好き」=「①好意を持っている」

であるのに対して、

ヒト(特に異性)については、

「好き」=「①好意を持っている」+「②1番である」

というように②のニュアンスがプラスされていることになる。

 

先ほど述べた、「好き」って感情はそんなにエラいのか、という疑問は、言い換えると、「好き」という感情に「数多くの中から自分に必要な1つを選ぶ」という難しい仕事をさせることは適当なのだろうか、ということである。

 

対象をヒト以外にも広げて、「数多くの中から自分に必要な1つを選ぶ」というケースをいくつか想定し、それぞれ「好き」だけで判断できるか考察してみる。

 

<ケース1「学年で1番付き合いたい女の子」>

あくまでフィーリングだが、これは「好き」という感情に一任してよさそうな気がする。

→「好き」だけで1番を選べる

 

<ケース2「夕食のおかず」>

その日のみに限った話であれば「好き」なものを選んでよいだろうが、長期的な選択であれば「好き」とは全く関連のない要素(健康、経済的な事情など)も考えないわけにはいかなくなる。

→場合によっては「好き」だけで1番を選べない

 

<ケース3「自分が就く仕事」>

好きなことを仕事にできる、というのは理想だが、多くの人はどちらかといえば「好きであるか」よりも「適正」で仕事を選ぶ。中には「好きなことは仕事にしない」という人すらいる。

→ほとんどの場合において「好き」だけでは1番を選べない

 

ざっと考えただけでも「好き」だけで1番(真に自分に必要な1つ)を選べないことがあることがわかる。

 

では、なぜ「好き」という言葉や感情がオーバーワークさせられるようになったのか。

 

もともと「好き」という言葉が背負う意味は「①好意を持っている」くらいしかなかったのかもしれないが、日本においてモノガミーが社会規範になるのに伴い、秩序を保つために必然と「②1番」のニュアンスが加えられていったのだろう。

そうだとすると、「好き」という言葉に含まれる「②1番」というニュアンスは人間本来の感情ではなく、歴史や秩序によってつくられたものということになる。

そりゃ無理が生じるわけですよ。

 

「好き」だけで1番を選べるか選べないかの差は「その対象を消費する」か「その対象に関連して何かを生産するか」の違いであると私は考えている。

例えばケース2の「夕食のおかず」において、単にその日に食べるおかずであればそれは消費の対象でしかないが、毎日食べるものであれば自分の体を生産する一因であるため、「好きかどうか」だけでは選べなくなる。

消費するときには「好きかどうか」だけを考えていればよかったのに、生産する側に回った途端「好きかどうか」だけでなく「対象は何か」「効率的かどうか」「持続的であるか」など多くの要素を複合的に踏まえる必要が生じる。

 

極論を言えば、「好き」という感情に由来する行為は、どんなに綺麗事で取り繕ったことろで、結局は「消費」である。

ケース1のように学生の恋愛なんかは多くが「相手の好意を消費して楽しむこと」がメインなのだから、相手の選定要因は「好きかどうか」だけでよいのだ。

ところがそれを通り越して、相手と何かを生産することが目的になったとき、相手への条件が「好き」だけでは片付けられなくなる。その「何か」が生活だったり子どもだったりするのが結婚なのだから、結婚は実に大変な生産活動なのだ。

 

何が言いたいのかというと、相手を消費したいって意味の「好き」なんて言葉や感情が、立派な生産活動をするためのパートナー選びの決め手になること自体がナンセンスだってこと。

 

「好きです。結婚してください。」

なんてプロポーズした日には

「好きなんていう響きの良い適当な言葉に甘えている時点でアウトです。」

と返されるような時代が来るといいですね。

 

結婚しない理由

メンズであるとはいえ、私もアラサーなので、ふとしたときに「なんで結婚しないの?」と訊かれることがある。

 

相手に悪気がないのは分かるが、実はコレ、なかなかに答えにくい質問なのだ。

 

なぜなら結婚を「しない理由」など、特にないからである。

結婚を「しない理由」が特にあるわけでなく、「する理由」がないからしていない。

ただそれだけなのだ。

 

昔、やんちゃな友人と一緒にいるときは「里中はなんで煙草吸わないの?」とよく訊かれたものだが、これも同じ。

「金がかかる」とか「体に悪い」とかではなく「吸う理由がない」からなのである。

煙草がおいしそうと思ったこともないし、カッコいいと思ったこともない。

本当にただそれだけ。

 

もしあなたが「なぜ今朝、たこ焼きを食べなかったのか?」と訊かれたらどうか。

別にたこ焼きが高くて買えなかったわけでも、たこ焼きが嫌いなわけでもなく、ただ単にたこ焼きを食べる機会がなかった、つまり食べる理由がなかった。

それだけのことであろう。

 

強烈な「しない理由」がないのであれば「する」こともできるだろう、とあなたは反論するかもしれない。

なるほど、確かに翌朝たこ焼きを食べることはできる。

1週間毎日食べることもできるし、意識すれば1か月食べ続けることもできるだろう。

 

しかし絶対に一生は続かない。

 

理由は簡単だ。「理由がない」からである。

 

 

…どうだろう。なんとなく納得してもらえただろうか。

 

ここくらいまで話すと相手は納得するか、呆れるかで、どちらにしてもこの話題を終わらせてくれる。

私はそれを狙っているだけで、実は「する理由がないから結婚しない」というのはただの嘘だ。

 

本当は、私には「絶対に結婚しない明確な理由」がある。

 

では、なぜその理由を説明しないのか。

説明したところで相手は絶対に意味がわからないからである。

「それが結婚と何の関係があるの?」が9割のリアクションであろう。

私は、変わり者扱いされること自体は特に嫌ではないが、それによって妙な誤解・迫害を受けることは避けたい。

 

人はとても概念に弱い生き物である。

例えば、私が「1+1の答えは10なんじゃないかな」とつぶやくとする。

「里中はどういう考えで2ではなく10と算出したんだろうか」と真剣に考える能動的な思考の人はほぼいないだろう。

「答えは2に決まってるから、里中は頭がおかしい」という人はかなり多いだろうが、こういう人はまだ良くて、

「里中は、答えが2だと思っている自分(や世の中)を批判しようとしているのか」というふうに捉える人が実はダントツに多い。

そういう誤解を受けると、全く意図しない形で多数の敵をつくってしまう。「どうでもいい奴にどう思われようと構わない」という人もいるかもしれないが、相手がただの友人ならともかく、仕事に関わる人物だった場合は仕事に支障が出てしまうので、どうでもいいというわけにはいかなくなる。

さらに、そんなリスクを冒してまで本音をぶちまけても、運よく相手に理解してもらえたところで実はお互いにメリットがない。

結婚して幸せに生活している人が、私の考える「結婚しない理由」の本質に共鳴してしまってすぐさま離婚、なんて展開になっても仕様がないし、私も全く期待していない。

私にとって、結婚しない本当の理由をやみくもに口にすることはまさに「ハイリスク・ノーリターン」なのである。

 

 

基本的にマイノリティとは、こんな感じに「絶対に理解してもらえない」+「ヘタに口にして誤解された場合のリスク大」+「運よく理解されてもメリットなし」というものなのだが、こういう状況は多かれ少なかれ誰にでもあると思っている。

 

あなたがそんな状況におかれたとき、以上をふまえて私から助言できることがあるとすれば、

 

①無理に理解してもらおうとしない(繰り返すが、よく考えればお互いメリットはない)

②相手に腹を立てない(自分がマイノリティであることを心得よ)

③軽い気持ちで踏み込まれそうになった時に煙に巻く方法を持っておくこと

 

以上。

 

メンヘラと私

私はこれまでいわゆるメンヘラの人たちに少なからず影響を受けてきた。

 

思えば中学生のころあたりからなぜかそういう人と関わることが多かった。
というより、例えばクラスで完全に孤立したメンヘラの子がいて、他のクラスメイトとは一切口をきかないのに私だけに話しかけてくれる、というケースが多かったように感じる。

もっとも、そんな傾向を実際に感じ始めたのは成人してからであるが。

 

私はメンヘラの人に対して、どこか憧れと同情が入り混じった中にもうひとつ別の感情を足したような気持ちで接してきたように思う。

 

憧れというか一種の敬意のようなものを抱くようになったきっかけのひとつを書いてみる。

 

私が中学2年生のときHさんというクラスメイトがいて、Hさんは年度の途中から登校拒否をするようになった。
たまに登校する日も彼女は基本的に保健室にいて、登校拒否するようになってからは同じ教室で授業を受けることはなかった。

Hさんは授業だけでなく教室で給食を食べることも拒否していたため、必ず女子の誰かが保健室まで給食を届けることになっていた。しかし、Hさんは全く給食に手をつけなかったため、わざわざHさんに給食を運ぶことに疑問を感じていた女子も多く、Hさんはクラスメイトにあまり良く思われていなかった。「あいつは頭がおかしい」と言う人すらいた。Hさんは今でいうメンヘラに該当していたと思う。

私はHさんについては特にどうも思っていなかったが、彼女が給食を食べない理由が気になっていた。

 

ある日、私は体育の授業でちょっとした怪我をしてしまった。(巻き爪になっていた足をバスケ中に踏まれて流血しただけなので怪我というより持病だが。)保健室に行くとHさんがいた。顔を合わせるのは数ヶ月ぶりだった。

私はあまり迷うことなく、Hさんに給食を食べない理由を訊いてみた。一言でいうと給食が「怖い」とのことだった。

当時の自分には詳細を充分に理解できなかったためか、具体的な言い回しは思い出せないのだが、推測による補正を入れると「全員が同じものを一斉に食べるのはリスクマネジメント上、不利なのではないか」ということを言いたかったのだと思う。

 

私にとってこの「給食=怖い」という回答はとても斬新だった。

給食といえば、中学生にとって今日のメニューが「ウマいかマズいか」、保護者にとって給食費が「高いか安いか」くらいしか判断の軸がないと思っていたところに、実は「怖いか否か」という次元が存在していたのである。

あれから20年近く経った今は、当時よりも食の安心・安全の重要性が見直され、テロの危険性なども実感できる時代になったため、「怖いか否か」という次元をある程度理解できる人も多いだろうが、あの頃そんなことを中学生の女子が発言したところで誰も耳を傾けなかっただろう。

当時のHさんがどこまで考えていたかはわからないが、教室に行くことができないほど繊細な感覚の彼女にしか見えないモノがあったのだと思う。

 

  • 【余談1】数年後、大学生の私が金城一紀の『GO』を読んだとき、ヒロインの桜井の台詞に似たような給食論があって驚いたのを覚えている。(その後、窪塚洋介柴咲コウの主演で映画化された際はもちろん観に行ったが、脚本を手がけた宮藤官九郎には響かなかったのか、残念ながらその台詞はカットされていた。)

  • 【余談2】「学校給食が必要かどうか」は公共のFMにおける議題のひとつでもある。「食育」に関連することはもちろん、上記のように「安全」かどうか、また自治体にとって調理士や栄養士の「雇用」など、様々な問題が関係するため、画一的な答えはないようだ。

 

このような出会いが何度かあるうちに、私はメンヘラの人に対して、周りの人たちのように「あいつは頭がおかしい」と安易に見下すことができなくなっていった。

「何か自分にはない軸を持っているかもしれない」という可能性が、冒頭で言ったメンヘラへの「憧れ」のようなものに結びついているのだと思う。

しかし、もうひとつ冒頭で言ったように、私はどこかでメンヘラに「同情」している部分もある。マイノリティであることを積極的に生かそうとする能動的なメンヘラはほんのごく一部で、私が出会ったメンヘラのほとんどはマイノリティであることに絶望するあまりマジョリティと向き合おうとする姿勢すらない。そういった姿に苛立ちを感じることもあった。

 

メンヘラの異性と関わることが多かった私は、これまで知人に「お前、メンヘラが好きなんだろ」と言われたことが何度もある。

そんな時は、メンヘラの人たちと関わる理由として上記のように「憧れ」や「同情」を挙げ、好意については否定してきたが、これについては正直自分でもよくわからない。

好きなのかもしれない。

少なくとも多くの影響を与えてくれたことは間違いない。

 

メンヘラをメインテーマにした記事は書かないと思うが、こういった人たちから学んだこと、それを踏まえて私が感じたことなどは書いていきたいと考えている。

 

自己紹介で気をつけるべき5つのこと

前回はこのブログを立ち上げるきっかけについて書かせていただいたので、次に書くことといえば簡単な自己紹介であろうか。

 

さて、この「自己紹介」というモノ。

進学や就職はもちろん、新プロジェクト発足や人事異動など、大勢の人に「はじめまして」の挨拶を行うときに必ずやる羽目になる。

フリートーク方式だとしっかり自己紹介がデキる人・デキない人の差が出ると考えられるためか、「趣味・特技」や「好きな食べ物」などのお題が与えられることが多いが、実はお題回答方式でもデキる人・デキない人の差は如実に出る。

みなさんは「どうせ誰もたいして聞いてない」などと思ってテキトーな自己紹介をしていないだろうか。

 

自己紹介は身近な自己表現という意味で服装や身だしなみと同じである。

初対面のときに相手がどんな服を着ていたかが、具体的な「記憶」として残らなくても、その人のオシャレさや清潔感といった「印象」として根強く残るように、最初にどんな自己紹介をしたかは、その人に対する印象や評価にかなり影響する。
ましてや口頭でなく文字で回答し、その後も残るものであればなおさらである。

 

そこで今回は、お題回答式の自己紹介で失敗しないためのポイントを説明する。

ここで説明するのは、あくまで自己表現が苦手な方にありがちな事例に基づく「失敗しないための」ポイントである。「より成功するための」ポイントはおそらく無数にあり、人によっても全く異なるので、それは表現力を高めつつ各々で研究してほしい。

 

では、まずイメージしやすいように、設定は以下のとおりする。

 

<設定>

  • あなたは社員1000人規模の企業に新卒で入社してきた
  • 新人の同期は50人
  • 入社式のあとに自己紹介カードが配布され記入を求められた
  • 記入した内容は顔写真とともに社員報として全社員に配布されるとのこと
  • 記入する項目は「職種」や「出身地」などの他に以下の①〜③
    ①趣味・特技
    ②好きな食べ物
    ③好きな有名人

 

新人50人のうち、男性A君と女性Bさんはこう回答した。

 

<A君(ぽっちゃりメガネのアキバ系)>

 ①趣味・特技…ギター
 ②好きな食べ物…ヌガーグラッセ
 ③好きな有名人…広瀬すず

 

<B子さん(スタイルがよいキレイ系)>

 ①趣味・特技…モデルウォーキング
 ②好きな食べ物…ラーメン
 ③好きな有名人…エアロスミス 

 

さっそくこれらをバッサリ斬りながら、気をつけるべきポイントを順に説明していく。

 

【その1】「あいつって○○なんだな」→誤解を受けやすいものはNG

 

 これに該当するのは、お気付きの方も多いと思うが、A君の③好きな有名人についての回答「広瀬すず」だ。

 念のためいっておくが、もちろん広瀬すずさんには何の罪もない。私も広瀬すずさんは大好きだ。広瀬さんが娘役で出演している東京ガスのCMは、世の独身男性に「あんな娘がマジで欲しいぜ…」と思わせるパワーがスゴいという点で、ヘタな行政の政策よりもはるかに少子化対策に貢献していると思っている。

 例えばこのような文を補足として載せられるのであればまだしも、あなたがその枠で伝えられる情報は「広瀬すず」という名前のみである。だれもがかわいい(カッコいい)と感じる女優(男優)をフェイバリットとして挙げることは、あなたをよく知らない人からすれば残念ながらミーハー、もしくは面食いといった印象を受けやすい。コアなファンしか知りえない広瀬さんの意外な魅力をあなたが知っていたとしても、残念ながらそこでは伝えることができないのだ。

 「好きな有名人」について、それだけで人を唸らせるような回答は通常ないので、減点対策として上記の注意点を踏まえておけば基本的に正直に書けばよい。その点でBさんの回答「エアロスミス」なんかはシブくてGOODだが、実はここにも別の落とし穴があるので後ほど説明する。

 

【その2】「それ何?」→ 大半の人がイメージできないマニアックなものはNG

 

 これに該当するのは、A君の②好きな食べ物についての回答「ヌガーグラッセ」。ヌガーグラッセと聞いてもほとんどの人はポカンとしてしまうだろう(違ったら失礼)。砂糖等を煮詰めてつくる「ヌガー」を用いたアイスケーキのようなスイーツである。

 スマホが普及し、誰もがすぐにネットで検索できる時代であることを考えると、一般的に馴染みのないワードをドンと投げかけることもアリと言えなくもないが、大勢の人に向けた表現としてはやはり不親切である。詳細はネットで検索して調べて欲しいのであれば、見た人を検索という行為まで誘導するためにも、何となくイメージくらいは浮かぶものを選ぶことが望ましい。

 インパクトを持たせたいのであれば、良い例としては「ハンマーヘッドカレー」。ハンマーヘッドカレーとは、ロックバンド“ブランキージェットシティ”でフロントマンを務めていたカリスマロッカーの浅井健一氏がプロデュースする欧風カレーのことである。詳細はわからなくても「カレー」という食べ物であることはわかるので、「ハンマーヘッドカレーってどんなカレーなの?」と興味を持ちやすく、会ったときの話のネタにもなりやすいだろう。

 

【その3】「それって嘘でしょ」→ 疑われやすいものはNG

 

 その1と同じく、正直に書くことも大事だが、嘘くさいと思われてしまう可能性が高いものは避けるべきである。あなたが自己紹介をしようとする相手は現時点であなたに関する情報をほとんど持っていない(ことが多い)、ということを忘れてはいけない。 

 これに関してはBさんの全ての回答が該当する。確かに①趣味・特技についての回答「モデルウォーキング」は嘘くさいけど、②のラーメンや③のエアロスミスは別に嘘くさくないのでは、と思われる方もいるかもしれない。

 なぜラーメンやエアロスミスがNGなのか。

 単刀直入に言うと「Bさんの好みではなく、Bさんの彼氏(または元彼)の好みである」と思われてしまう可能性が高いからである。特にラーメンについては、雑誌のライターでもない限りキレイ系女子がひとりでラーメン屋巡りをしているとは一般的に考えにくいため、彼氏主導の情報だということが見抜かれやすい。そうなると、Bさんとしては「男性と盛り上がれる最高のネタ」として挙げたつもりだったのに、Bさんにラーメンの話を振ったところで本気で盛り上がる可能性は低いし、Bさんをラーメンデートに誘うこともできない。ターゲットであったはずのラーメン好き男子をこの上なく盛り下げてしまう結果となる。

 もちろん彼氏からの影響であったにせよ、今やBさんは本当にラーメンやエアロスミスが好きなのかもしれない。しかし先ほども述べたように、ここに記すことができる情報は「ラーメン」「エアロスミス」という言葉だけであり、残念ながらBさんが本当にラーメンやエアロスミスを好きだということを裏付けることはできない。「本当だもん!本当に好きなんだもん!」という気持ちをグッとこらえ、ここではラーメンやエアロスミスを封印しておくことが賢明だ。

 どうしてもラーメンと書きたいのであれば、「出前一丁」と書くことをオススメする。上記のようなジレンマから逃れることができるだけでなく、どことなく家庭的な印象を与えることができる。別に「マルちゃん製麺」でもいいのだが、あまり近年に限定すると現在ズボラな生活をしているという印象にもつながりかねないので避けた方がよいだろう。

 

【その4】「こいつマジじゃん」→ 前のめり過ぎるアピールはNG

 

 Bさんの①趣味・特技についての回答「モデルウォーキング」はそのまんまなので特に触れる必要はないだろう。注目したいのは、A君の①趣味・特技についての回答「ギター」だ。これはスタンスによって必ずしもNGとは言い切れないのだが、ほとんどの人が前のめりアピールしようとして失敗している例なので挙げさせてもらう。

 繰り返しになるが、自己紹介は「表現」である。「趣味・特技として回答した内容」は、イコールその人の「実際の趣味・特技」なのかと思われがちだがそうではない。もちろん結果的にそうなることもあるが、正しくはその人が「趣味・特技として挙げたかった内容」だ。

 例えば、趣味・特技に「カンフー」を挙げることは、その人がどの程度の達人であるかどうかはさておき、「(普通の人にはあまり馴染みのない)カンフーというジャンルを私は知っているんですよ」というアピールとなる。意外性があるので、なぜカンフーと関わることになったか、というバックグラウンドが気になってしまう。つまり趣味・特技をひとつ答えるだけで「その人」自体に興味を向けることができるわけだ。

 しかし、弾けること自体が珍しくない(特に男性にとっては)「ギター」となると微妙なのである。その人のギタープレイが面白いか否かは実際に聴いてみないとわからないが、少なくとも「ギターが弾けます」というアピール自体は全く面白くはない。

 趣味・特技の回答として「ギター」がOKかNGかは、上記のことをふまえてA君が「ギター」という回答を大勢の人に見せることにどんな効果を期待しているか、によるだろう。「俺はギターを弾ける」ということをとにかくアピールしてギター友達を増やしたい、という目的なら効果はあると思われるのでOKといえるが、大抵の場合は「俺はギターが上手いんだ」という前のめりなアピールがしたくて趣味・特技に「ギター」と書いてしまう。しかしそのアピール自体は面白くないうえに、文字から音が聴こえてくるわけでもないため、どんなにあがいても「俺はギターが上手い」のアピールにはならない。さらに本当に表現力のある上手いギタリストは、レベルを問わずに一括りにされることを避けるために趣味・特技に「ギター」なんて書かないので、結果的に自分の実力がさほどではないことまで露呈してしまうこととなる。

 表現の未熟な自己紹介は、期待した情報が伝わらないばかりか、裏に隠された知られたくない情報が伝わることにもなり得るので気をつけよう。

 

【その5】紹介したNG項目をあえて織り交ぜる「上級技」も

 

 しつこいようだが、自己紹介は「表現」である。冒頭にも述べたように、身近な自己表現という意味で服装や身だしなみと同じといえる。あなたが服装に無頓着で毎日同じジーパンとTシャツだったとしても誰にも迷惑はかけないが、周囲からの評価という点で確実に損をするだろう。服装に過剰に時間やコストをかけすぎる必要はないが、TPOに応じていろんな要素を試し、自分をよく魅せるスタイルを模索していくのが望ましい。

 1〜4で説明したNG項目はあくまで基本の話であり、あえて織り交ぜるという上級技もある。例えばBさんの①趣味・特技についての回答「モデルウォーキング」は、アキバ系男子のA君が回答したとすればかなり面白い。もちろん多少離れワザになるので、他の項目との組み合わせ等を工夫するなどバランスを調整する必要はある。

 

 

最後まで読んでいただいたあなたに感謝する。私は常にこんなことを考えている。これが私の自己紹介だ。